日本人会のクラブハウスに備え付けの雑誌が何冊かある。
そのうちのひとつ、週刊新潮の7月30日号を開いたとたん、見覚えのある風景が目に飛び込んできた。

2年半前までの3年間、私たち家族が住んでいた島だ。巻頭グラビアのしまめぐりで特集されていた。
人口250人周囲7kmの、日本海の荒波に呑まれてしまいそうな小さな島だった。
生活施設は、学校と公民館と小さな商店2軒と自販機が2台あるだけ。スーパーもコンビニも食堂もレストランも病院も郵便局も銀行も派出所も役所もガソリンスタンドも信号も、なーんにもなかった。
つまりは農漁業以外の仕事がないので、島には若者がほとんどいなかった。
でも、対岸本土の生協から週に一度荷が送られてきたし、インターネットで本や服も買えた。水も電気もガスも電話も普通に使えたし、トイレも水洗だった。それほど生活が不自由だとは感じなかった。
なにより、時間と自然と人情は売るほどあった。
いつも新鮮な魚や野菜に恵まれ、子どもたちもたいそうかわいがってもらった。5号の妊娠・出産・授乳期をここで過ごせたことは、ずいぶん私を救ったと思う。
一年前の一時帰国の時、我が家は何をおいても、とこの島を訪ねた。
親交の深かった人々は温かくもてなしてくれたが、それ以外の人は反応が薄かった。顔を見て「ああ」という感じ。こっちが勇んで来た分、勝手に寂しく感じて、思い当たる。
そっか。
外に(しかも外国に)出て、いろんな体験をして戻ってきて、ああ久しぶり、懐かしいわって思うのは、こっち側だけなんだ。
島には、私たちのいなかった間も、変わらない時間がずっと流れていて、みんなそこで変わらずに生活してるんだ。
一年半ぶりどころか、親族だって何年も会わないのだ。街で就職してしまった子どもや孫。廃屋とお墓を残したまま、もう帰ってこない人もきっと。
写真で見る島にもやっぱり、十年一日の変わらない空気が流れていた。
ふと3号が、小さな写真に小さく写っていた農作業中の男性の姿を見て、「あ、○○さん」と声を上げる。挨拶くらいはしたことがあるだろう、程度の私にはまったくわからない。
3号はきょうだいの中でも特に人懐こく、よく知らない家に上がりこんでお茶をよばれていた。
島の変わらない時間は、今も子どもたちの中に流れている。
来年帰ったらまた行こう。そのことを確かめに。
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