インドネシアを理解しようとする時、どうしてもここにぶつかる。
ので、友人に借りて読んでみた。
阿刀田高著『コーランを知っていますか』。イスラム教の聖典であるコーランについて、それからその背景について、とてもわかりやすく書かれている、まさにイスラム入門書。
私なりに「ほほう。」と思ったことを書いてみる。もしまちがってたらごめんなさい。「ごめんなさい」で許されるかな…。←このあたりがもう先入観
↑このように日本人には(私には?)「怪しげでわかりにくい」イメージのあるイスラム教だけど、その教えは実に単純な論理で貫かれている。
いわく、
神の教えを守っていれば天国に行け、背けば地獄に落ちる。矛盾が多いと言われるコーランの中で、これだけは徹頭徹尾貫かれていて、そりゃあもうしつこいくらいに繰り返し繰り返し書かれている(らしい)。
言い換えれば、「これさえ書いておけばよい」という見方もできる。一日に5回もお祈りするのも、女性が素肌を出しちゃいけないのも、豚肉が食べられないのも、犠牲祭に牛を捧げるのも、すべては神の思し召し。
「なんで?」などという問答は無用。余計な事は考えず、黙って神様の言うことを聞いてさえいれば、天国に行けるんですから、という理屈だ。
その神とは、言わずと知れた「アラーの神」だが、これはいわゆる「唯一神」。この世に神はただひとり、なのだ。その神の教えを、モーセが表したものがユダヤ教、キリストが表したものがキリスト教。でも、いずれも神の教えを完全には表しておらず、また時とともにゆがんできていることから、言わば
「預言者の真打ち」として登場したのがマホメットらしい。
つまり、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、同じ神をあがめているのだけど、神の教えを最も完璧に表しているのがイスラム教ってわけ。
ちなみに、日本に見られるような多神教は、原始的な邪教とされている。
森や川どころか、トイレや包丁にまで神が宿るなどという考えは、およそ理解の外だろう。八百万(やおよろず)ってなんじゃそりゃ、って感じかな。
それと、一般的な日本人の考え方、たぶんつまりは仏教と大きく違うと感じるのは、「天国」のイメージ。
「人間にはたくさんの欲望があって、その欲望が満たされないから苦しむ」ところまでは同じなのだけど、仏教では、天国=極楽は、その欲望から解放された自由で穏やかなところ、というイメージがある。だからこそ、お釈迦様は静かで中性的な雰囲気だし、我欲を捨て切れなかったカンダタは地獄に落ちたのだろう。
一方、イスラム教では、天国は「すべての欲が満たされるところ」らしい。現世は人生のほんの序章に過ぎず、死後に長い長い来世が待っている。前述のように、現世で徳を積んでおくと、来世には天国へいける。その天国は、一言で言うなら
「竜宮城」。美女をかわるがわるはべらせ、飲めや歌えの大騒ぎ…かどうかはわからないけど、清らかな乙女(つまり生娘ですね)がかしずいてくれるらしいです、はい。
(ジャニ系童貞が準備されているかどうかは不明)
つまり、現世の苦しみは、仏教では
「欲を捨てるため」の修行で、イスラム教では来世で
「欲を満たすため」の修行。欲望に対して否定的なのと肯定的なのと、どっちがよいかは悩ましい。←このあたりがもう煩悩
ただ垣間見えるのは、砂漠の民のサバイバルな暮らし。
厳しい気候と多民族の争いの中で生き残っていくためには、温暖な島国の単民族のように、八百万の神だの悟りの境地だの牧歌的で悠長なことは言ってられなかったのかもしれない。
支配と絆を強固なものにするには、「今黙って言うこと聞いてりゃこの後ずーーーっとウハウハだから」くらいの、強烈な信仰とリーダーシップが必要だったのかもしれないなあ、と思う。
そしてそれだけ、アラブの人々がエネルギッシュで生命力に溢れているということでもある。
スポンサーサイト